ひな壇に家財道具を沢山並べているおひな様はあこがれでした。
しかし合理性を重んじる私の祖母、芳子さん(享年62歳)が用意してくれた初節句のおひな様は、内裏びなではなく、でっかい市松人形風立ちびな。
家財道具どころではありません。
芳子さんはその後さっさと旅立ってしまったので、私の父が(自身にとって姑である)おばあちゃんの思いだからねと毎年せっせと飾ってくれていましたが
一世を風靡した万念寺のお菊人形※が二体並んでいるようで、
ひな祭りの時期は「あなたの知らない世界」放送日と同じくらい恐ろしかったものです。
さて、おひなさまは男雛と女雛であることはなんだか当たり前のように思っていましたが、考えてみればそれは誰にでも当たり前といえる時代は変わるのかもしれないなと思います。 最近、ニュースなどでもよく出ているLGBTという言葉は、セクシャルマイノリティーを限定的に表す言葉で、Lはレズビア(女性同性愛者)、Gはゲイ(男性同性愛者)、Bはバイセクシュアル(両性愛者)、Tはトランスジェンダー(生まれた性別にとらわれない性別のあり方を持つ人)を意味します。
これ以外にも性的少数者はいますが、それ以外は含みません。 よくこれらの少数者を婚姻制度から排斥する理由として「家族になっても子供もつくることができないくせに。」というものが挙げられることがあります。
では。子供を授からなかった夫婦は夫婦としての法的地位が認められなくてよいのでしょうか。 子供が死んでしまった年老いた夫婦はどうでしょうか。 熟年で結婚するご夫婦には夫婦として法的地位を保証する意味がないのでしょうか。
家族の意味は単なる子供を作る関係ではなく、運命共同体の中の人と人とつながりにあるのだと私は思います。人によってそれは異なります。血縁を何より重んじる方もいらっしゃるかもしれません。しかし私は、弁護士になって以来、血縁ではない本当の人と人とのつながりというものも存在することも見ています。逆に血のつながりがあっても心が寒くなるような仕打ちが家族のなかで起こっていることも見たことがあります。
だとすれば、血縁の子供を作れるかどうかは法律が家族として認めるか否かとは関係ないのではないでしょうか。 この種の排斥論の本当の根拠は生理的嫌悪感です。私だって個人的にはある種の組み合わせには非常なる生理的嫌悪感を持っています。しかし自らの生理的嫌悪感は自らかぎりのもの。人のことをどうこうまでいう権利までないのです。
人間は本当に多様性を有する生き物です。その多様性こそが文化をはぐくみ。社会を進化させてきたのだと思います。ですから、自分と違う者を排斥することはサルに戻るようなものではないでしょうか。
今は、怖くないおひな様を飾っています。 ちゃんと家財道具もつけてね。
クリックしてアップでお楽しみ下さい
平成28年3月14日 文責 弁護士 菊谷淳子
※ 万念寺のお菊人形 昭和の子供達に多大なる衝撃とトラウマを与えた有名な市松人形。