ミモザノヘヤ

高田馬場の弁護士の日記です。

「殺すつもりはありませんでした」の残酷さ

 私は三面記事が大好きです。とくに日本を代表するクオリティペーパー、日刊●ンダイの三面記事は愛読しています。三面記事しかも興味本位でしか書いていないああいう記事でも参考になることはあります。本当です。大手新聞に書かれているような当たり障りのないことはネットでも読めますから。しかしまああの、妙齢の女性がこういうものを日々購入して電車で読んでいる姿、若干親不幸ですが・・・・

 さて、今日の三面記事を見ると大阪の母親による幼児2人の置き去り事件の裁判員裁判事件で被告に無期懲役が求刑されたようです。被告人が「殺すつもりはなかった」と言っているそうですが、虐待という側面ではなく、今日は刑法の考え方と現実の事件との間にある気になる乖離についてお話ししたいと思います。

 

 刑法上は殺意があったか否かで成立する犯罪が変わります。例えば人を殴って死なせた場合殺意があれば殺人罪、殺意がなければ傷害致死が成立します。一般に人を死なせるつもりでなく人を死亡させた場合は故意に人を死亡させた場合と比べて軽い刑が規定されています。わざと人を殺した場合とそうでない場合は非難されるべき度合が異なる、というのがその背景の考え方です。

 しかし、本当にそうなのでしょうか。

 「殺すつもり」もないまま死亡に至らしめる程度の暴力にさらされ続けることは被害者から見れば果てしなく苦痛が続くもので、殺すつもりで致命傷を与えられるよりもっと長い苦痛を味わうのではないでしょうか。

 最高裁は死刑が「残虐な刑罰(憲法36条)」にあたらないとしていますが、その理由として「残虐な刑罰」とは「不必要な精神的、肉体的苦痛を内容とする人道上残酷と認められる刑罰」であり現行の絞首刑はこれにあたらないからという理由を挙げています。つまり、現在の死刑執行方法の絞首刑に伴う苦痛が比較的少ないから残虐でないとしているのです。苦痛を与え続けることの残酷さはこの裁判例も認めているのです。

 そうすると、上述した大阪の事件で被告が、「死ぬとは思わなかった」というのは実は「死ぬだろうと思った」というよりはるかに残酷です。

 それは、生きたい一心で自分の汗をなめ、自らの排泄物を唯一の糧にしながら母の帰りを待ち、苦しんでいるだろうけどどうせ死なないでそのままの状態でいるだろう、と認識して放置したということを意味するからです。

 いっそ一思いに殺意を持って殺してくれていた方が、子供たちはそこまで苦しまなくて済んだかもしれないのです。

 私見ですが、殺意があったかなかったかで単純に罪の重さを規定する刑法上の議論は実はどうでもいい議論ではないかと思います。殺意があるか否かを問わず犯行態様の残酷さ、被害者の痛みに即し、量刑相場に引きずられず法定刑の上限をフルに活用して相応の量刑を科すればよいのです。それでこそ、「司法改革」の殺し文句「市民感覚」が生かされるのではないでしょうか。

  平成24年3月12日 文責 弁護士 菊谷淳子